誰もがいろいろな経験をのりこえて生きている。

 それは地元の駅でのことだった。土曜日の翻訳学校の帰り、電車から降り、自宅に近い西出口のほうに向かってホームを歩いていた私は、向こうから歩いてくる彼女に気がついた。見覚えのある顔。以前とは雰囲気が違っていたが、それが中学時代の友達であることは私にはすぐわかった。気さくで、誰にでもすぐ声をかけ、誰もが声をかけやすかった、友達の多かった彼女。ある学年のはじめのころ、私は、お昼のお弁当を一人で食べていた。わざわざ誘ってまで人と一緒に食べなくてもまあいいかと思い、また、まわりがみんなグループになって食べていても、自分だけが一人で食べることにたいした抵抗も違和感もなかった。だが彼女は私のところにやって来て、彼女たちと一緒に食べるように誘った。そして私がまだ返事をしないうちに、もう私のお弁当を持ち、わたしを彼女たちの机のほうにひっぱっていった。それ以来、私達は学校でよく一緒にいるようになった。そういう風に、誰かが一人でいるのを放っておけなかった、ひとなつこかった彼女。携帯電話を耳にあてていた彼女もこちらに気付き、そして私達は視線を交わした。ここ一年ほどの私は、街中で知り合いを見かけても声もかけず、気がつかないような顔をすることにしていた。いつものように素知らぬ顔ですれ違おうとした私は、 だが、目をそらそうとした瞬間、彼女の視線の中にある強力な何かを感じ、なぜか彼女から視線をはずせなくなった。そのままじっと見つめあうのも居心地が悪いので、彼女に向かって小さく手を振ると、彼女も手を振り返した。ホームの中ほどで出会うと、彼女のほうから口をひらいた。
「すごいよなぁ。」
最後に会ったのは中学の時だから、もう十三年も経っていた。それだけの時を隔てた旧友に偶然出会うのは、確かにどこかしらすごいことに感じられた。
「お互い、わかるのもすごいよね。」
私は答えて言った。二人とも、お互いを知っていた当時とはまったく違った容貌をしていた。髪型ひとつとっても、活動的なショートカットやショートボブだった彼女は、今はその髪をストレートのまま、長くのばしていた。たしか中学のあの頃はくせっ毛のロングヘアだった私は、今は金髪でベリーショートになっていた。
「変わらんOLやってるで。」
彼女は自分のことを言った。満足していないのだろうか、「変わらん」がえらく強調されていた。彼女はずっと私から目をそらさずに話した。
「今、何してるん?」
仕事のことを聞かれ、心の中で躊躇しつつ、私は答えた。
「えっと、今はパフォーマンスの写真を撮ったり、翻訳の学校に行ったり…」
「変わらんOL」に満足してないらしい彼女に、自分がいろいろなことに手を出していることを自慢しているようで、私は何だか私自身の話をしづらい気がした。だが彼女はあっさり答えた。
「がんばってんなぁ。」
私達はそれからすこし立ち話をした。

 「まあ、また会えるよ。」
会話の終わりをうながすように彼女は言った。それを聞いて私は、何故かハッとし、彼女の目を見た。彼女はやはり、ずっと私の目を見て話していた。そしてその目の表情には、以前私が彼女を知っていた頃にはなかった何かがあった。
「私、まだ前の家におるから、この辺よくおるし。」
そうやね、と、その目の表情の違和感を感じながら私は言った。その違和感がなんなのか探りたいという欲求を強く感じ、私は意識せずに彼女の目をじっと見ていた。
「じゃ、またね。」
彼女に言われ、私もいった。
「うん。また。」
そうして私達はそれぞれ元々歩いていた方向へ、また歩き出した。

 駅の階段をおりながら、わたしは彼女の目から感じた何かについて考えていた。あれは…、なんだったのだろう。うまく言葉にならない。彼女の目は、私が知らなかった間の彼女についての何かを語っていた。自動改札機に切符を入れてそこを通り抜けると、私は駅近くに置いている自分の自転車の方向に歩き出した。近いうちに会う約束でもすればよかったな。そう考えた時、あることに思い当たった。以前、私が知っていた頃の彼女なら、近々お茶でも、などと誘うくらいするところだ。だが彼女はそうはしなかった。あのひとなつこさは何処へいったのだろう。そう思った瞬間、私はあの違和感を言い表わす言葉に行きついた。「疑い」?あの目は人を疑うことを知った目だった。私が知っていた頃の彼女は、誰のことも疑わず、それゆえに誰もが寄っていきやすかった。そうして寄ってきた誰かに裏切られたことでもあったのだろうか?私は一瞬、ホームに戻って彼女ともっと話し、何があったのか聞きたいという、ゆるやかな衝動にかられ、歩く速度を落した。だがその衝動は、私の足を本当にとめるにはゆるやかすぎた。私は思った。誰もがいろいろな経験をのりこえて生きているんだなと。彼女も、私も、そして他の誰もが。私はまた歩く速度を早め、駅前の自転車置き場に向かった。