やりたいことをちゃんとやると決めていれば、やらない理由はきっと勝手にどこかに行ってしまう。

先週の木曜日、夕方近くなったころ、社内の移動で台車を押しながら歩いていた。建物の出口にさしかかったとき、自動ドアの外に、文鳥をカラフルにしたような、明らかに野鳥ではない鳥が落ちている?座っている?のに気がついた。こんなところにいたら、間違って踏まれてしまうかも。きっと迷子だから誰かが捜しているかも。野鳥じゃないなら、自分で食べ物を見つけられないかも。今、どこかに飛んで行ってしまったら、探してる飼い主さんがますます見つけられなくなってしまうかも。一瞬でそんな思考が頭をめぐった。そして、とりあえず保護しないと、と思った。台車を置いてドアの外に出た。飼われている子なら指に乗るだろう、と思い、その子の前に人差し指をそっと差し出す。その子は予想通り自然に、ごく自然に指に乗った。

 
さあ、これからどうしよう。体全体を手のひらで覆うようにして包めば逃げ出しにくくなるけど、上から手が出てきたらびっくりして逃げちゃうかも。躊躇していたら、そこを親子連れが通りかかった。手に小鳥を乗せているわたしを見て、びっくりして話しかける。どうしたの?その子、ここにいたの?座ってたの?
 
その声に驚いたのかどうかは分からない。鳥は突然飛び立って行ってしまった。話しかけてきた人も、あ、ごめん、と言って立ち去って行った。
 
あたりをひと通り見て歩いてみたけど、その鳥はもう見当たらなかった。気にはなるけど、いないものは仕方がない。台車を取りに戻り、移動先へと向かった。向いながら、もしあの鳥を保護していたら、今夜の予定はキャンセルしないといけなくなってたな、と思った。
 
☆    ☆    
 
会社を出ると急いで、あるイベントを目指して西宮に向かった。長い間、離れていた分野だけど、なぜか行ってみようと思った。友人が出演しているから、とか、地元でやっているから、というのもあったかもしれない。
 
久しぶりのダンス公演は、5組のユニット?カンパニー?がそれぞれの作品を演じる、という構成のものだった。どの作品もそれぞれの世界があって、わたしはただそこに座っているだけでよくて、そうするとその世界が感じられて、それがとても楽しくて、嬉しかった。
 
その感覚にひたりながら、やりたいことをやらない理由は無限に作り出せる、というようなことを思った。同時に、やりたいことを本当にやると決めていれば、やらない理由は勝手にどこかに行ってしまう、ということも思った。
 
やりたいことをちゃんと形にしているのであろう舞台上の人たちを見て、そのエネルギーを感じて、そう思った。
 
あの鳥のことは気になるけど、今日、ここに来られて良かった、と思った。
 
    ☆    
 
会場でわたしが座った席は、空調の風がちょうど当たる場所だった。エアコンが苦手なわたしはちょっとやばいかな、とは思ったものの、上着もあるし大丈夫だろうと思い、移動せずに開演を迎えた。
 
だが、2組目の初め頃にやっぱりその気持ちはあふれた。「…おしっこしたい。」
ど真ん中の席に座ってしまったので、通路が遠い。通路までたどり着いてもホールの出口が遠い。自分が座った位置から出口にたどり着くには舞台の目の前を横切らなくてはならない。演目の途中でトイレを目指すという選択肢はなかった。2組目の後にトイレ休憩がありますように。そう祈りながら2組目の終わりを待った。
 
……2組目の終わりにトイレ休憩はなかった。
 
舞台転換の短い間にささっと抜け出そうかとも思ったが、友人が出演しているのは3組目だ。見逃すわけにはいかない。絶対見る。
 
カバンにもう一枚上着があったはず。さっきは見つけられなかったけど、絶対カバンに入れたはず。そう思ってカバンの底をさぐるとカーディガンがでてきた。それを羽織って、さらに、姿勢を工夫して下腹部を圧迫しないようにする。
 
上着二重化の効果か下腹部非圧迫姿勢の効果か、おしっこしたい気持ちは3組目の途中から少しマイルドになっていった。
 
3組目の作品を見ながら、また思った。やりたいことをやると決めていれば、やらない理由は勝手にどこかに行ってしまう、というのは、きっと本当のことだ。たぶん。

低く、毅然とした、しかし暖かさのある声。その声は、カンディンスキー展の、ある絵のの前で聞こえてきた。

 

「この絵は何に見えるかな?お花が咲いてるようにも見えるねぇ。でも、人がたくさん、槍をもって立ってるようにも見えるねぇ。」

 

声のするほうを見ると、小学校一、二年生くらいの男の子を連れた夫婦がいた。親子連れなのだろうか、祖父母と孫なのだろうか。判断が難しかった。


 話しているのは、母親か祖母だと思われる女性。彼女は、男の子と手をつなぎ、絵の前に立っていた。男の子を真ん中にして、反対側には彼女の夫らしき男性。彼女は、その暖かい声で、男の子に語りかけ続けた。


「りょうの見たいように見ていいんだよ。りょうには何に見えるかなぁ?」


私からその男の子の表情は見えなかったが、語りかけられる言葉に耳を澄ませながら、絵をじっと見ている風であった。次は男性の方が言った。


「この下のほうのは何に見える?」


男性が指差す先には、黒っぽく青っぽい、五角形に近いようなかたまりが描かれていた。聞かれた男の子、りょうくんと言うのであろう、は言った。


「うーん。何かなぁ。」


はっきりした口調。それが何なのかを考えながら言っているのが明らかなトーン。りょうくんが考えるのと一緒に、私も考えた。そして、まわりにいる大人たちも、絵の同じ部分を見つめていた。…動物?じっと見ていると、何か四足の動物が、首を後ろにまわして、後ろ足をくわえているか、舐めているかの様に見えてきた。と思った瞬間、りょうくんが言った。


「あ!犬かなぁ。」


りょうくんの傍らの女性は言った。


「そうだねぇ。犬みたいに見えるねぇ。」


 彼らが次の絵に移っていくと、私は後を追って彼らの会話の続きを聞かずにはいられなかった。その女性は、その柔らかく低い声で、りょうくんに語りかけていた。


「赤がきれいだねぇ。青もきれいだねぇ。りょうはどんな青が好き?」


りょうくんは、ちょっと考えてから口を開いた。


「んー、やっぱり、うすいのがいいなぁ。」


りょうくんは、ちょっと姿勢を変え、女性の顔を見ながら答えた。それまで見えなかった彼の顔が、私からも見えるところにあった。はっきりした光を放つ、賢そうな目。意思の強そうな、しっかりした眉。たった七、八歳そこそこの彼は、カンディンスキーに囲まれたその場所で、自分がどこにいるのか知っている、一人の人間の顔をしていた。


 私は周りを見まわした。私は迷子になってはいないだろうか。どうも、自分自身は迷子であるような気がしていた。どの絵を見ても、何を思っていいのかわからなかった。自分がその絵を見て何を感じているのか、わからなかった。なんだかわからないまま、手探りで行くしかなかった。

 

美術館の中を歩いているだけなのに、涙が出そうになりながら、少しずつ、展示室を進んでいった。

 

 しばらく行った先の部屋に入ると、大きな、すごく大きな絵が二枚かけられていた。部屋の途中までおそるおそる進む。

 

すると、その絵から音楽が聞こえてきた。

人のざわめき以外、そこには音はなかった。

だか、その絵からは音楽が流れ出ていた。

私は、確かにそこにいた。

 

 

 

メモ1: インプロヴィゼーション2

メモ2: コンポジション7

誰もがいろいろな経験をのりこえて生きている。

 それは地元の駅でのことだった。土曜日の翻訳学校の帰り、電車から降り、自宅に近い西出口のほうに向かってホームを歩いていた私は、向こうから歩いてくる彼女に気がついた。見覚えのある顔。以前とは雰囲気が違っていたが、それが中学時代の友達であることは私にはすぐわかった。気さくで、誰にでもすぐ声をかけ、誰もが声をかけやすかった、友達の多かった彼女。ある学年のはじめのころ、私は、お昼のお弁当を一人で食べていた。わざわざ誘ってまで人と一緒に食べなくてもまあいいかと思い、また、まわりがみんなグループになって食べていても、自分だけが一人で食べることにたいした抵抗も違和感もなかった。だが彼女は私のところにやって来て、彼女たちと一緒に食べるように誘った。そして私がまだ返事をしないうちに、もう私のお弁当を持ち、わたしを彼女たちの机のほうにひっぱっていった。それ以来、私達は学校でよく一緒にいるようになった。そういう風に、誰かが一人でいるのを放っておけなかった、ひとなつこかった彼女。携帯電話を耳にあてていた彼女もこちらに気付き、そして私達は視線を交わした。ここ一年ほどの私は、街中で知り合いを見かけても声もかけず、気がつかないような顔をすることにしていた。いつものように素知らぬ顔ですれ違おうとした私は、 だが、目をそらそうとした瞬間、彼女の視線の中にある強力な何かを感じ、なぜか彼女から視線をはずせなくなった。そのままじっと見つめあうのも居心地が悪いので、彼女に向かって小さく手を振ると、彼女も手を振り返した。ホームの中ほどで出会うと、彼女のほうから口をひらいた。
「すごいよなぁ。」
最後に会ったのは中学の時だから、もう十三年も経っていた。それだけの時を隔てた旧友に偶然出会うのは、確かにどこかしらすごいことに感じられた。
「お互い、わかるのもすごいよね。」
私は答えて言った。二人とも、お互いを知っていた当時とはまったく違った容貌をしていた。髪型ひとつとっても、活動的なショートカットやショートボブだった彼女は、今はその髪をストレートのまま、長くのばしていた。たしか中学のあの頃はくせっ毛のロングヘアだった私は、今は金髪でベリーショートになっていた。
「変わらんOLやってるで。」
彼女は自分のことを言った。満足していないのだろうか、「変わらん」がえらく強調されていた。彼女はずっと私から目をそらさずに話した。
「今、何してるん?」
仕事のことを聞かれ、心の中で躊躇しつつ、私は答えた。
「えっと、今はパフォーマンスの写真を撮ったり、翻訳の学校に行ったり…」
「変わらんOL」に満足してないらしい彼女に、自分がいろいろなことに手を出していることを自慢しているようで、私は何だか私自身の話をしづらい気がした。だが彼女はあっさり答えた。
「がんばってんなぁ。」
私達はそれからすこし立ち話をした。

 「まあ、また会えるよ。」
会話の終わりをうながすように彼女は言った。それを聞いて私は、何故かハッとし、彼女の目を見た。彼女はやはり、ずっと私の目を見て話していた。そしてその目の表情には、以前私が彼女を知っていた頃にはなかった何かがあった。
「私、まだ前の家におるから、この辺よくおるし。」
そうやね、と、その目の表情の違和感を感じながら私は言った。その違和感がなんなのか探りたいという欲求を強く感じ、私は意識せずに彼女の目をじっと見ていた。
「じゃ、またね。」
彼女に言われ、私もいった。
「うん。また。」
そうして私達はそれぞれ元々歩いていた方向へ、また歩き出した。

 駅の階段をおりながら、わたしは彼女の目から感じた何かについて考えていた。あれは…、なんだったのだろう。うまく言葉にならない。彼女の目は、私が知らなかった間の彼女についての何かを語っていた。自動改札機に切符を入れてそこを通り抜けると、私は駅近くに置いている自分の自転車の方向に歩き出した。近いうちに会う約束でもすればよかったな。そう考えた時、あることに思い当たった。以前、私が知っていた頃の彼女なら、近々お茶でも、などと誘うくらいするところだ。だが彼女はそうはしなかった。あのひとなつこさは何処へいったのだろう。そう思った瞬間、私はあの違和感を言い表わす言葉に行きついた。「疑い」?あの目は人を疑うことを知った目だった。私が知っていた頃の彼女は、誰のことも疑わず、それゆえに誰もが寄っていきやすかった。そうして寄ってきた誰かに裏切られたことでもあったのだろうか?私は一瞬、ホームに戻って彼女ともっと話し、何があったのか聞きたいという、ゆるやかな衝動にかられ、歩く速度を落した。だがその衝動は、私の足を本当にとめるにはゆるやかすぎた。私は思った。誰もがいろいろな経験をのりこえて生きているんだなと。彼女も、私も、そして他の誰もが。私はまた歩く速度を早め、駅前の自転車置き場に向かった。